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Posted by あしたさぬき.JP at

2008年02月08日

戦後林政のあやまち -4-




粗雑な工事が大問題となった南アルプススーパー林道工事(1975)@nacs-j日本自然保護協会


明治以降熾烈を極めていた日本の森林利用と森林荒廃は,保安林施策,治山事業によるはげ山復旧,そして 国土緑化運動/緑の羽根募金による普及啓発事業等で昭和30年代までにおおむね復旧したと思います。
それは 同時に 「石油文明に依存する生活様式」に大きな舵を切ったときでもあったのです。



福島県白川営林署ブナ・アスナロ原生林伐採(1972)@nacs-j日本自然保護協会

昭和33年にスタートした 国有林の生産力増強計画は いわゆる「拡大造林」施策のスタートなのですが,高度経済成長路線に乗り遅れまいと林野庁が推し進めたもので,これは 「緑の事業」であるべきものが 当時から色んな自然破壊を起こして自然保護運動の引き金になるとともに,全く違う形の新しい「森林荒廃」を作り出すことになるのです。

この拡大造林は,当初は,急増する木材需要に対応するための緊急伐採的性格も持っていたのですが,高度成長時代の中で,工業的発展の形を模倣し,年成長量最多のピークで主伐することによって,最も効率的に木材生産が出来るという森林を「木材生産コンビナート」に見立てる構想でした。
だから 林業の本質である「保続の原則」=成長量(利子)の増加分だけ 伐採すれば林分蓄積(元本)は減らない)を無視して,過伐を16年間続けたのです。



四手井綱英:「森の声を聴け」(1980) くりまno.2文藝春秋

同齢・単一樹種・大面積の造林は,病虫害や災害に弱いという林学の教科書に書かれている基礎を無視して,同じ施業体系を 全国森林計画制度を通じて 民有林にも徹底させた。
里山の薪炭林利用が利用目的を失っていたこともあって 広葉樹林を生産性の高い針葉樹林に植え替えることを「造林補助金制度」で推進しました。
そして 里山地帯の造林が終わると 冷温帯ブナ林や亜高山帯シラベ林まで拡大造林の対象として,自然生態系を無視して伐採・造林を進めた結果,粗雑な林道工事や大面積皆伐によって貴重な植物群落の破壊や山腹崩壊などの土砂災害を引き起こし,全国各地で自然保護問題が発生したほか,植栽した苗木の活着不良で不成績造林地になった事例が少なくありません。

国有林の経営は,独立採算制という特別会計で運営されており,当初は大幅な黒字だったのですが,昭和50年を境に赤字に転落し,昭和55年に3000億円の赤字がその後平成9年当時3兆5千億円にまでふくらみ,第二の国鉄いわれて 経営破綻した。

拡大造林の失敗は,当初から過ちを指摘されながらなかなか修正されることなく,昭和末期の 知床原生林伐採や白神山地のブナ林伐採問題が世間の大批判を浴びることとなって,やっと国有林の在り方が問い直されることとなりました。
国有林は人工林率60パーセントを目標に施策を続けようとしていましたが40%でストップしました。民有林は,国有林の経営破綻後も拡大造林施策を継続しており,制度としては平成13年の森林・林業基本法の大改正まで盲目的に国の施策に追従してきたと考えられます。
(つづく)

  


Posted by quercus at 00:19Comments(0)戦後林政のあやまち

2008年02月06日

戦後林政のあやまち -3-




木を伐るのは「悪」であった。木材資源は,戦前・戦中の乱伐で枯渇しており,戦後復興資材として,また熱源として大切な森林資源はどん底であった。
お正月の門松づくりにマツの穂が必要であったが,戦後造林樹種のホープ(痩せ地でも早く成長する)のマツの穂先が伐られると成長に大きな影響が出る。
だから,国民新生活運動の一つとして,門松は「紙」になった。




それほど,山が荒廃しており,「森林整備」の必要性が国民にしみ込んでいた。

しかし,いわゆる「1960年」を境として,日本の森林事情は,大転換に向かう。 
(つづく 拡大造林への道 )  


Posted by quercus at 21:57Comments(1)戦後林政のあやまち

2008年02月06日

戦後林政のあやまち -2-


これは地理学の先生で千葉徳爾(ちばとくじ)というはげ山の社会学的研究の第一人者が書いた名著「はげ山の研究」に示されているはげ山とはげ山移行林地の分布図である。瀬戸ものの産地であった愛知県の多治見地方,古くは平城京・平安京の時代から都建設のために大量の木材伐採が続いた近畿地方,そして製塩業が盛んだった瀬戸内沿岸。



これは,まんのう町の炭所西生産森林組合誌に掲載されている昭和6年の荒廃地復旧治山事業の写真である。古老の話では,この写真現場は,満濃町江畑奥ではなく,現在の高松市香川町のマツノイパレスあたりの写真でないかという。

このような状態を,我が国では「荒廃林地」と定義づけて,森林整備を進めてきた。
そして,戦中戦後の伐採跡地の植林も含めて,それこそ先人の偉業といえる大造林が実行されたのである。









天皇陛下が全国を回って国土緑化運動を呼びかけ,自らも「お手植え」を続けた。国民は,木を切ってはいけない。木は植えるものであると覚え込まされた。緑の羽根を皆が胸につけて募金した。  
タグ :緑の羽根


Posted by quercus at 21:48Comments(0)戦後林政のあやまち

2008年02月06日

いきなり結論!戦後林政のあやまち-1-

「あなたは森林整備は必要と思いますか?」
(思う,分からない,思わない)・・・・・というアンケートがあったらどれに○をつけますか?
おそらく,大方の人が「思う」に○をするのではないか。森林整備は必要ないという回答として「思わない」を選択する人がいたら,きっとその人は,日本の森林の現状によほど詳しいか,若しくは森林に全く無関心であるかのいずれかであろう。



これは,岡山県が作成した保安林制度100周年記念誌「岡山県治山事業のあゆみ」に掲載されている池田村(現総社市)宍粟地区の明治32年のはげ山の写真である。
こんな山を放置すると降雨の度に雨裂浸食(ガリー)が進み,ますます山地は荒廃するし,下流は流出した土砂に埋まることとなる。

これは同じ箇所を5カ年かけて治山事業で山腹工事(荒廃した山腹斜面に等高線上に水平の溝を設置し,そこに柴等の有機物で階段を作り縦浸食を防止すると共に,階段上にマツとヤシャブシなど肥料木を植栽し森林復元を図る工事)を実施した明治37年の写真である。



これは,時代は50年以上経過した昭和31年の丸亀市本島の荒廃状況である。
これも このまま放置すると下流に土砂は流れて災害のもとになるだろうし,なにしろ森林が成立しないままでは森林の公益的機能はおろか景観上も瀬戸内海国立公園のど真ん中として多いに問題がある。
だから,治山工事という森林法で規制され森林所有者の負担によらない行政執行によって森林復旧=森林整備が行われてきた。



これは,はげ山の一歩手前「荒廃移行林地」という区分で管理されていた荒廃地の写真である。

どうして こういう事態になっていたのか?
台風災害で土砂崩れが起きてこうなったわけではない。
これらは,いずれもいわゆる「1960年」以前の写真・状況である。つまり,燃料・肥料革命以前の日本の森林の実態である。「過剰利用」の典型・・・・毎日の炊事・風呂の熱源,製塩業のための燃料源,農業のための有機物供給源・・・ひどくなると根っこまで 木だけでなく草の根までおがして持ち帰る生活だった。そのなれの果てが,こうしたはげ山を生んだ。  


Posted by quercus at 20:29Comments(2)戦後林政のあやまち

2008年02月05日

『森林道場』を始めます。





我慢ならない 一日だった。
間違った森林認識を正したい。


今日から スタート。

ほんとうの人と森の絆をつなぐために。  
タグ :森林道場


Posted by quercus at 23:44Comments(5)人と森の絆